吉田美保子の some ori ノート

あと2週間!清正ならどうする?

2016.11.04

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気がつくと再来週の土曜は、帰熊の日。うわー、焦るわー。とはいえ出来ることしか出来ないのだ。粘り強く、コツコツと作り続けるしかない。
戦乱の時代を生き抜いた清正公なら、こんなせっぱ詰った時、どうするだろう?
おーい、せいしょこさーん!
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個展が決まって、よし、テーマは清正の陣羽織だって決めた昨夏に、まずしたことは、大和市立図書館のサイトに検索を掛けて、思いつく限りのキーワードを打ち込んで、出てきた本をすべて借りることだった。そして、バラバラとめくって、気になる所に付せんを貼り、読むの日々。難しい本は読んでない。〇〇歴史読本とか言う名前の、ムック本とか、そんなの。
私のような10代終わりに故郷を離れ、特に歴史に興味をなく、、、、というタイプの人間にはとって、清正公は、熊本城を作ったお殿様という以外、知らないのだ。
私の子どもの頃のせいしょこさんのイメージは、今は、藤崎宮秋の例大祭と言われている、通称ボシタまつりの隋兵行列の、当時の星子熊本市長が、清正公のコスプレをして、馬に乗って、先頭を歩いてた。その市長さんのコスプレこそが、清正公のイメージだ。
これではいかん。正確な知識、カモーン。
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それで、本を読んで初めて知った、清正のこと。
1562年6月24日、尾張中村で生まれる。幼名、夜叉丸。元服後は虎之介清正と名乗った。母が秀吉の生母の伯母であったことから、小さい頃から秀吉に仕えた。身長は2m近くあったらしい。
1582年、賤ヶ岳の戦いで大活躍して、「七本槍」の一人として、名をなした。
1592年と1597年の朝鮮出兵で活躍。虎狩りしたとか、しなかったとか。
1596年、慶長元年、近畿地方に大地震が起こったとき、清正は直ちに伏見城に馳せ参じ、秀吉のために働く。当時、秀吉は誤解から清正のことを疎んじていたのだが、その勘気を解く。このことから、清正は「地震加藤」を言われた。清正は、築城、治水、干拓の名手であった。
1600年の関ヶ原の戦いでは、東軍に加担。それにより、家康より肥後全土を与えられる(それまでは北半分だった)。
1607年に熊本城が完成。
1611年、秀吉に恩を感じていた清正は、京都二条城での、家康と秀頼の会見に同席。無事を見届ける。その帰り道に病気になり(一説では京都で毒を盛られた?)、1611年6月24日、熊本の地で死す。享年50歳。
清正の死後、かねての約束通り、娘の八十姫が家康の十男、徳川頼宣に嫁ぎます。なんとその孫が八代将軍吉宗です。ちょい残念なのは、清正の血は入ってないってこと。八十姫はお子様ができなかったらしく、養子を実子のように育てたとのことです。
一方、跡継ぎの加藤忠広は、きちんとした理由は分からないけど、改易(初めて知った言葉だけど、更迭って意味らしい)されています。豊臣の子飼いの血筋は、徳川にとってじゃまだったってことなのか、はたまた、素行が悪かったからなのか?

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